湯けむり漂う温泉の街・雲仙には語り尽くせぬほどの物語があった。千年以上積み重ねた時間の長さは出会いと別れを繰り返してきた街の姿そのもの。歴史をひもとくことで湧き出てくるものは今まで気がつかなかった新しい雲仙との出会いなのである。
【ハチ公も驚く忠犬・矢間物語】
湯元の宿に仕えていた賢い犬「矢間」の石碑。北有馬までのお使いができる犬で雨の日も風の日も宿の主人・小左衛門のお使いに応えていたという。ある日、夕方になっても帰ってこない矢間を心配していると「矢間が礼ノ原で倒れている」という知らせが・・・。駆けつけると荷物を守ろうと山賊と戦って傷だらけで息を引き取った矢間の姿があった。主人の小左衛門をはじめ、矢間を偲んだ人たちが丁寧に礼ノ原に埋葬した。石碑はその時に小左衛門が建てたもので現在は雲仙小中学校の国道から雲仙教会へとつながる裏道路沿いにひっそりと佇んでいる。特別な囲いなどはなく草木の中にポツンと置かれている。
【再チャレンジのシンボル】
大宝元年(701年)奈良時代の名僧行基によって建立された満明寺。その境内に静かに佇むのが羅漢(仏)像の数々。何も知らずに満明寺を訪れた人はその姿を見ただけでは気づくことはないのだが良く見るとこの羅漢像はそべて首を繋ぎ合わせたものばかり。キリシタン弾圧のときこの石仏の中に十字架を隠しているのではないかということで首を切られたと伝えられている。切り離された羅漢像を元の姿に戻し、新たな息吹を吹き込んだことから今ではテレビで紹介されるほどリストラ除難の御利益があると話題になっている。
【恵みをもたらす三鈷の松】
日本では歴史のある霊山にあると言われている三鈷の松。雲仙の三鈷の松が発見されたのは昭和55年、現満明寺住職の宥晃和尚により発見された。名僧行基が開山させた雲仙には全盛期千人以上の僧が修行に励み「西の高野山」と呼ばれていたという。今から1,200年前、空海(弘法大師)が中国よりご帰朝される折、真言宗の根本道場を定める目的で真言密教の法具の1つ三鈷杵(さんこしょう)を投げた。それが高野山の松の木にあったことから三鈷の松と呼ばれるようになったと伝えられている。この三鈷の松の葉を持っていると恵みがあると言う伝があり、財布などに忍ばせておくと良いという。小地獄から徒歩3分、一切経入口の鳥居から一本道を下り約7分。鳥居と一切経の滝の中間にある。道中は足場が悪いので歩行にはご注意を。
【88の幸せを呼ぶ!?】
雲仙温泉街の中心地にある満明寺の境内には小さな石仏がズラリと並んでいる。四国八十八ヶ所のミニチュア版で前住職の宥晃和尚が四国八十八ヶ所を徒歩で廻りお砂を持ち帰り四国八十八ヶ所をお詣り出来ない人のために建立された。石仏の下にはお砂が埋めてあり、御利益があると言われている。じっくりと見て歩いても20分ぐらいで一巡りできる。
【名僧行基建立の神社(四面の謎)】
大宝元年(701年)名僧行基によって温泉矢間大乗院満明寺を創建しているがこれが四面社(現温泉神社)の発祥。当初、分霊社(分霊を祭って創立された神社)があり、庶民は「おしめんさん」と呼んで親しんでいた。四面社の四面とはさまざまな説があるが東西南北の4つの方角を守っているとか、4つの分霊社が千々石・吾妻・西有家・諫早にあるのでその4つの方向を四面と捉えるなど言われているがいまだ研究の種となっている。
【これより先、女人は入るべからず!】
小地獄入口バス停そばに建っている片足鳥居はかつて温泉神社が四面社と呼ばれていた頃の第一鳥居。鳥居は文政十年(1827年)に建立されたと記録が残っている。その昔、雲仙が女人禁制であったことを証明する史跡で修行僧が多く訪れていた時代この鳥居から先は女性が入ることが出来なかったのだ。
【命の尊さを伝える殉教の碑】
雲仙の悲しい過去がキリシタンの弾圧。時代は江戸時代、全国的にキリシタンの弾圧が行われていた頃で雲仙では改宗させるために地獄責めという残忍な拷問を行っていた。寛永4年(1627年)から約6年間続き、多くの信者たちの命が奪われたのである。碑は神へ命を捧げた人たちへの慈しみを込めて建立された。